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風と鳥と、木のそばで考えたこと

  • yukisyoga
  • 6月30日
  • 読了時間: 3分

私の家の前には、木がたくさん生えた敷地があります。風が通り、いろいろな種類の鳥たちの声が聞こえてきて、ふと足をとめたくなるような時間が流れています。

何か特別なことがあるわけじゃないけれど、その「自然がある」という日常が、私にとってはとても大切なものです。

けれど最近、そんな自然が、少しずつ街から失われているように感じることがあります。


木が「迷惑な存在」になってしまう日本

日本では表向きには「脱炭素」や「SDGs」「環境への配慮」などが叫ばれています。でも、実際には、各地で木がどんどん切られている光景に出会います。

「古くなったから」「落ち葉が掃除の手間になるから」「インフラ整備のため」──そうした理由で、街路樹や公園の木々が次々と伐採されている地域が少なくありません。

特に地方都市などでは、大型商業施設や道路整備のために、何十年、時には百年以上生きてきた木が、あっさりと伐られてしまうことも。

「短期的な利便性」「景観重視(=落ち葉のないきれいな道)」「管理コストの削減」そうした価値観が、木のいのちよりも優先されているように見える場面に出会うと、胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちになります。


木があることは、そんなに困ること?

最近は、「木は危ない」「迷惑だ」という空気さえあるように感じます。

  • 枝が落ちる → 危ないから切ってしまう

  • 根がアスファルトを押し上げる → 通行の妨げになるから伐る

  • 落ち葉 → 掃除が面倒、滑って危ない

  • 虫が出る → 不快、苦手だからいらない

でも、本当にそうでしょうか?

  • 木が枝を落とすのは、自らの重さを調整し、風の通り道を開く自然な働き。※もちろん、太く重い枝の落下は安全上の配慮が必要であり、危険を軽視する意図ではありません。

  • 落ち葉は、土を豊かにし、水分を保ち、小さな生き物のすみかになります。

  • 根が持ち上げた舗装の下では、命の営みが生まれているのかもしれません。

  • 虫もまた、循環の一部であり、自然界の大切な仲間です。

自然は私たちにとって“便利”な存在ではないかもしれませんが、共にあることで、生きる力を育ててくれるものではないでしょうか。


海外では「木を守ること」が未来を守ること

ヨーロッパやカナダなどでは、逆の動きが起こっています。「都市に緑を取り戻そう」という考え方のもと、古木の保存や新しい植樹が進んでいます。

たとえばベルギーでは、木陰が「公共の冷房」として大切にされています。夏の暑さをやわらげ、エネルギー消費を抑え、人々の心を癒す──そんな木の力を見直し、街路樹の保護政策が強化されているそうです。

自然が「不便なもの」「管理対象」ではなく、「共に生きる存在」として扱われている。その価値観に、私は深く共感しました。


小さな意識から、自然とのつながりを

私の家の前の敷地には、木がたくさんあります。風が通り、鳥たちの声が響き、虫が葉の裏にひっそりと暮らしています。

そんな風景が、当たり前のものとして、もっと大切にされてほしい──そう願っています。

自然とのつながりを取り戻すことは、特別なことではなく、小さな意識から、静かに始められることなのだと思います。


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