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「桜」は愛するのに「街路樹」は丸坊主

  • yukisyoga
  • 7月4日
  • 読了時間: 4分

私たちが忘れた、自然との本当の共存

日本の街を歩いていると、どうしても違和感を覚える光景があます。

幹だけを残し、枝葉を徹底的に切り落とされた街路樹たち。通称「ぶつ切り」とも呼ばれるこの強剪定は、今や日本の都市では珍しくない風景になっているようです。

一方で、ヨーロッパをはじめとする環境先進都市では、まったく違う景色が広がっている。地球温暖化対策やヒートアイランド現象の緩和、生物多様性の保全のために、都市の中に意図的に「森」を育て、木を大きく豊かに成長させることが、街づくりの一つとして進められています。

神宮外苑の再開発に伴う樹木伐採問題も、多くの人の記憶に新しいかもしれません。

なぜ今の日本では、木がこれほどまでに「厄介者」のように扱われてしまうのでしょうか。

そこには、私たちが自然を見る視点そのものの変化と、自然との歪んだ距離感が見え隠れしているように思います。


1. 「管理」と「リスク回避」が最優先される街

日本とヨーロッパの大きな違いは、都市における木の役割の捉え方にあります。

ヨーロッパの多くの都市では、木は単なる景観ではなく、「グリーンインフラ」として位置づけられています。街を冷やし、空気を整え、生きものを育み、人々に木陰をもたらす、都市に欠かせない存在です。

だからこそ、葉が茂り、本来の役割を十分に果たせるよう、木を育てることに投資する。

一方、日本の街路樹管理の根底にあるのは、「安全第一」「トラブル防止」という考え方。

「台風で倒れたら危ない。」「電線に当たる。」「看板が見えなくなる。」「落ち葉で排水溝が詰まる。」

もちろん、こうした課題に向き合うことは必要です。

しかし、その解決策が「とにかく切る」という選択になってはいないでしょうか。

苦情を避け、管理を効率化する。その結果として生まれたのが、手っ取り早くリスクをゼロにするための枝葉を失った街路樹の風景です。


2. 「イベントとしての自然」と「日常の自然」

ここには、一つの矛盾があります。

日本人は世界でも珍しいほど四季を愛し、春になれば桜に心を躍らせ、秋には紅葉を求めて山へ向かう。

その感性は、本当に素晴らしいと思います。

それなのに、家の前の街路樹が毎年丸坊主になっても、私たちはあまり疑問を抱きません。

ただ、「街路樹だからね」と受け止めてしまっていることが多いようです。

なぜだろう。

それは、自然が「共に暮らす存在」ではなく、「楽しみに行くもの」へと変わってしまったからではないでしょうか。

桜や紅葉のように、季節を彩る美しい瞬間は愛する。

けれど、毎日の暮らしの中にある木には、虫がつく、落ち葉が増える、掃除が大変といった「不便」ばかりが目につく。

少々、ピリリとした言い方ですが「自然は好き。でも、自分に都合のいい自然が好き。」

そんな距離感が、私たちの中に生まれてはいないでしょうか。


3. 落ち葉一枚も許されない街

現代の日本は、世界でもトップクラスに清潔で、便利な社会です。

けれど、その裏側には、少しの不便や不快ささえ許さない空気もあるように感じます。

海外の緑豊かな都市では、木がもたらす木陰や潤いという恩恵のために、落ち葉や多少の虫は、自然と共に暮らすための当たり前の営みとして受け入れられている地域も少なくない。

一方、日本では、数枚の落ち葉でも「管理不足だ」という苦情につながることがあるようです。

電線が問題なら地中化を進める。

枝が伸びるなら、美しく樹形を保ちながら剪定する。

本来なら選べるはずの方法があるにもかかわらず、一番簡単な「切る」という方法ばかりが選ばれてしまう。

そこには、「自然は人間が思い通りに管理するもの」という発想が潜んでいるように思えてならないのです。


私たちの「見る場所」を変える

私たちはいつの間にか、自然からあまりにも遠く離れた場所に立ってしまっているのかもしれません。

しかし、神宮外苑の木々を守ろうと多くの市民が声を上げ始めたように、「このぶつ切りの風景はおかしい」「私たちはどんな都市に生きたいのか」という違和感を持つ人々は、確実に増えています。

ただ消費するためだけの自然ではなく、都市のインフラとして、そして共に生きる隣人として、木々を見る視点を取り戻すこと。それこそが、私たちが忘れてしまった「自然との本当の共存」への第一歩なのではないでしょうか。



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