いのちを見つめる
- yukisyoga
- 2月4日
- 読了時間: 3分
最近、立て続けに生徒さんとの何気ない会話から、「いのち」について考える時間がありました。
体が元気なとき。病気のとき。心が晴れているとき。落ち込んでいるとき。
そのときの状態によって、「いのち」の受け取り方はまったく違うものになります。
でもヨガは、どんな状態であっても“今、在る”という事実そのものを大切にします。
私自身、ヨガを続ける中で、「いのち」の捉え方が少しずつ変わってきました。
以前は、いのちの終わりは、断絶や、真っ暗な終わりのように感じていた気がします。
ヨガの練習を重ねるうちに、死は大きな流れの中のひとつの過程のようにも感じられる瞬間が出てきました。
吸う。吐く。生まれる。変わる。終わる。
どれも切り離された出来事ではなく、ひとつのリズムの中にあるような感覚です。
呼吸とともにプラーナが巡る。生きているというのは、その流れがあるということ。
けれど、ヨガは「肉体=いのち」とは言い切りません。
いのちは、肉体だけでなく、呼吸やエネルギー、心や感情、知性や気づき、そしてもっと奥にある静かなよろこびまでを含んだものとして見ていきます。
だから、いのちは単に「生き延びること」ではなく、流れであり、気づきであり、つながりそのもの。
呼吸が浅くなると、世界も狭く感じる。呼吸が深まると、いのちの感覚も少し広がる。
そんな実感を、ヨガは体で教えてくれます。
また、人間は自然の一部だと言われます。
しかし実がなり、やがて枯れていくことと、人が生まれ、死を迎えることは、同じ自然の営みでありながら、どこか違う。
いのちを、ただ美しいものとしてだけでは語れないのは、人間がその中で揺れ、苦しみ、意味を探す存在だからかもしれません。
人間は、苦しみ、悲しみ、未来を想像して不安になり、過去を思い出し、関係を結び、意味を探します。
ヨガでは、こうした心の動きをチッタと呼びます。それもまた、自然の一部。
悲しむのも自然。辛いと感じることも自然。違うと感じることも自然。意味を探すことも自然。
植物が咲いて枯れる。そこにドラマはありません。
でも人間は、いのちに物語を宿します。
そこが、人間の豊かさであり、同時に苦しさでもあります。
そしてヨガは、その苦しさや悲しさ、恐怖を止めようとはしません。無理に前向きに受け取ろうともしません。
ただ、静かに見ていく。
悲しんでいる自分に気づき、恐れている自分に気づく。
その日その日の呼吸が違うように、いのちの始まり方もそれぞれで、終わり方もそれぞれ。
終わりをどう理解するかを急ぐよりも、今日の呼吸を丁寧に味わうこと。この瞬間をしっかりと生きること。
それが、いのちに向き合うということなのではないかと、今の私は感じています。




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