自分を見失わないために
- yukisyoga
- 7月5日
- 読了時間: 3分
更新日:7月6日
以前、「ものを持つ」ということについて綴ったことがあります。
今でも、特に大きなものを所有することには、どこか負担を感じます。何かを持てば、それに合わせて必要なお金や責任が増え、自分の暮らしまで少しずつ大きくなっていくような気がするのです。
だから私は、「あるもので生きていく」という感覚を大切にしてきました。
足りなければ、あるもので工夫をする。必要以上に、自分の暮らしを自分以上の大きさに広げない。そんな生き方が、自分には心地よいのです。
何かを所有すれば、それを手に入れるためのお金が必要になり、持ち続けるためにもお金や手間がかかります。
最近、この「日々のつれづれ」でこんなことばかり言っているような気がしますが、、私はもともと、社会の中でお金を稼ぐことが得意なタイプではありません。もちろん、生きていくためには働くことも必要です。でも、そのために抱えるものを、必要以上に増やしたいとは思わないのです。
お金によって得られる自由にも、あまり興味がありません。
それは、お金そのものを否定したいわけではなく、自分の暮らしや時間が、お金を得るためだけに大きく変わってしまうことに違和感があるからです。
私たちは、働き、稼ぎ、消費することが当たり前の社会の中で暮らしています。その流れに身を置いていると、「もっと」という価値観に気づかないまま飲み込まれてしまうことがあります。
私は、その社会の仕組みに無理なく適応できる人は、それほど多くないように思っています。多くの人が、少なからず自分を社会に合わせながら生きています。
そして、いつの間にか「社会にうまく適応できる人ほど価値がある」という空気まで、当たり前のものとして受け入れてしまうことがあります。
しかし、社会に適応できるかどうかと、その人の価値は、本来別のものだと思っています。
私たちは、何かができるから価値があるのではありません。たくさん稼げるからでも、社会にうまく適応できるからでもありません。
もともと、そのままで存在しているだけで尊い。
そのことを忘れずに生きていけたらと思うのです。
何かを所有することでも、何かを成し遂げることでもない。
私たちは、ただ存在しているだけで美しい。
そのことを思い出したくて、「静寂に耳をすませるヨガ」というクラスを考えました。
残念ながら人数が集まらず開催には至っていませんが、このクラスは、何かを頑張るための時間ではなく、ただ存在する時間を味わうためのクラスでした。
静けさの中で、自分は何を感じるのか。何を見出すのか。
その時間を重ねるたびに、自分という存在の美しさを思い出していく。
そんな時間を、いつかまた形にできたらと思っています。
まだこのクラスは7月まで予定していますので、ご都合つきましたらどうぞ。




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